道具考

久留米絣で思い出した。実用することについて。
作りだされるまでの莫大な時間と労力、さらには技術の習得にかかる時間を加えると、そのようなモノにはそれなりの対価が払われるべきだと思う。そのモノを必死に手に入れ、大事にちゃんと使う。使わなければ本当の良さはわからないし、モノ本来の用途をなさないのは不健全に感じる。モノの存在理由を曲げないほうが好ましいように思うから。それ以上の意味は…なんだろう。
そのために作られたものがその目的を十二分に果たしている、その姿に満足するからなんだろうか。

道具学を掲げるデザイン事務所にいたおかげなのか、いわゆる「道具」については考える機会が多かったが、和装への関心から思うに「着るもの」ではどうなのか。
単に身につける道具であって同じである、ということもありそうだ。実用的な繊維は実用されてエイジングする。木製品や金属製品と同じことだ。モノは永遠ではなくいつか壊れると坊さんが言うように、その時間の長短はあってもみないずれ土に還っていく。
繊維は寿命の短い素材だろう。それを使いたおすのが日本の生活だったわけで、洗い張りし、仕立て直し、染め直し、継ぎはぎし、小裂はハタキに、仏壇の小座布団に、果ては燃やして灰になった灰汁を使った。(これは絹物の運命に限る?)小さな穴に1センチ四方の継ぎをあてて、それでも数十センチしかない端切が実家に沢山ある。紫の無地の綸子で、いったい元は何だったのか想像もつかないが、その布裂に対する執念に脱帽する。何かにしなければ、という執念である。
実用するということ、使う目的に対して磨き上げられた道具は美しいことが多い。布であれば、機能美にさらに色気をまとわせることができる。色気が勝てば実用から遠くなり、濡らすことはできないが大事にされ三代もつと言われる。ハレの日の布。しかし働く布には別種の美しさがあるし、それを愛でることでケの日も楽しく暮らすことができる。
働く布は働かせ水をくぐらせ陽に干すことを楽しめばよいんだろう。高価な手織りの木綿も、手間を考えれば納得する。昔はそんなに反物など買えなかっただろうし、それは手織り労働に対する正しい価値ということだろう。それでも木綿は働く布だ。使ってナンボ、永遠にとっておくものではないんだろう。

正しく使ってやろうと思う。

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